サバイバル!~人はズルなしで生きられるのか

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サバイバル!~人はズルなしで生きられるのか (ちくま新書)
服部 文祥 著
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ヤバイ本にあたってしまった。

私は自己啓発やビジネス、社会、などなど、人生お勉強系の本をよく読む。
この本も、そのテの本だろうと思ったのだ。
別に題名だけを見て買ったわけではない。
ちゃんと本屋で目次を読み、キャッチコピーを読み、ぱらぱらと本文をめくってみてレジでお金を払って買ったのだ。

この人は登山をするらしいが、「ズルなしで生きる」というあたり、やはり人生お勉強系の話がメインなのだろうと思ったのだ。
おまけに、題材が私の大好きな登山であるなら、これは楽しみ百倍である。

ところが!


実はこの本、「サバイバル登山」についての本格的な山登りの本だった!
ヤバイ!!!!!!
オレのやりたいことそのものではないか。

私はかつて、食料と寝袋プラスアルファの軽装で、富士山の麓の樹海や富士の五合目あたりや近辺の山岳地帯を泊まり歩いていた。
有料無料を問わずキャンプ地などは全く利用しなかった。
近隣まで愛車の三菱JEEPで行き、そこから地図とコンパスだけで徒歩やMTBで山の中に入っていった。
プチ・サバイバル登山である。

この本、つまりこの人は、本格的なサバイバル登山の実践者なのだ。
サバイバル登山とは、極力、素の人間の状態で登山を行う。
米とコッヘル程度は持っていくが、火は焚き火(雨の日はタープの下)、おかずは釣った岩魚や山菜。
山小屋やテン場は避け、ハイカーや中高年登山客が列を成す登山道も避け、沢沿い、けもの道を目的地までのルートとして選択する。

この本は、その魂、極限状態で感じる人間の生、これまでのバックボーンとなった山行や実際に行ったサバイバル登山の記録、その生々しい行動原理が著されている。

・・・行きたくなっちゃうじゃないか。

私が今一番やりたいのがコレなのだ。
かつてちょっとかじったサバイバルキャンプやサバイバル登山を、もう一度、やってみたいと思っているのだ。
もちろん、単独行だ。

数日以上、食料もほぼ自給、というほどスゴイものは今の私には無理だろうが、一泊二日、食うものは自分で持って行き、テント有りor無しは天候次第、人っ子ひとり居ないところで存分に寂しさを味わいつつ満天の星を眺める、というのをやってみたいのだ。

そこには、男のロマン、といわれるモノがあるのだろうか。
私は別にオトコでもオンナでも、感じたい生々しい人間の生は同じだろうと思っている。
が、この類の冒険野郎はやはり馬鹿な男に多いのだろう。

都会に生きていると「実感」が薄れていく。
私は生まれも育ちも紛れも無い都会なので、ちょっとした自然に新鮮さを見出す。
いや、もしかしたらそうではないのかもしれない。
昭和中盤生まれの私は、子供の頃は森や林や野原や土手などで遊んで育って、身近に自然を感じてきたバックボーンからそれは来ているものかもしれない。
横浜の神奈川区といえど、かつてはそういった自然がふんだんに残っていたのだった。
だからなおさら、今の生活が自然から離れて生の「実感」が薄れているのを感じるのだろうか。
通勤時間を含めれば、私は自宅にいる時間が6~7時間程度しかない。もちろん、寝る時間も含めて、だ。あとは都心が仕事場である。
幸か不幸か、八王子に引っ越してからは、自宅はかなりふんだんに自然に囲まれた、いわば贅沢な環境にある。帰ると本当にホッとする。
自宅に帰ることによって僅かに癒される私の生とは別に、私は私の人生を生きて歩んで行く上での、自分の魂に触れる「実感」を必要としているのだと、この頃感じている。いや、再び私は本来の自分が、これまでどう歩んできたかを思い出しつつある、というほうが正確かもしれない。
自宅が豊かな自然に囲まれ、家族と過ごせる家があるからこそ、私は私の中に眠らせている荒々しい野生の魂を揺さぶりたがっている。
オレの原点、といったところだろうか。

かつて、私のそれは音楽作りだった。
つたない作品とはいえ、無から作品を生み出す自宅レコーディングは私の魂を揺さぶり続けてきた。
それは私自身の生そのものだったのだ。
たかがRockやPopsではあっても、それは芸術活動のひとつには違いない。
人の魂を揺さぶらない芸術があろうか。
私は音楽を自らの手で生み出すことによって、私の魂を激しく揺さぶり続けていた。

今、1~2本のギターとALL自作のいくつかの作品を残し、私に音楽のための機材は無い。残らず処分した。
大部分のミュージシャンくずれの男は同じ境遇だろうと思う。それが普通の社会人なのだ。
それはそれで良い。やりたくなったらまた始めればいいだけだ。

その音楽作りプラス、サバイバル山中徘徊をやっていた。
若いってのはエネルギッシュなものだ。

そして、キャンプはオートキャンプ場がメインになり、登山は標高600n弱の東京の高尾山となっている。
それは別に不満は無い。私の生活の大部分を占める、私の幸せなのである。

私はそれとは別に、私が生々しい人間であるための「実感」を求めている。
あるいは、私が「男」たる実感、と言い換えてもいいのかもしれない。
私にはどうしてもそれが必要で、このままその実感をつかめないで臨終の床に着いたならば、私は死ぬ間際に諦めのため息をつくことになるのだろう。
私はできれば、その時には「実感」した微笑を浮かべて死んでいきたい。
そう願っている。

私は現在、自分が魅力の無い人間になりつつあるような焦燥感を感じているのだ。
私は私の奥様や子供達にとって、魅力のあるお父さんでいたい。そう頑張って生きていたい。
しかしそのためには、私は自分が元々感じてきた、自分の泥臭い男である部分がぜひとも必要なのだ。
月並な言い方になってしまうが、オレがオレであるために。

フンダンなカネをかけて登山のための装備を揃えたり、あるいはデジタル楽器やコンピュータ・ミュージックの機材を揃えたりすることもできるだろう。
しかし、この本は、私が求めているものは、本来そういった方向に走るものとはベクトルが異なっているのだ、ということに気がつかせてくれた。
楽器はともかく、登山やキャンプでは、確かにその通りだった。

考えてみれば、私は自転車(MTB)は極力シンプルな形が好きだ。フェンダーはおろか、ライトやバッグやサイクルコンピュータも自転車に取り付けたくは無い。
素のMTB、それも素の状態で極力高性能な、つまり素性の良い自転車が好きなのだ。
しかし、自転車は大好きだが、自転車とはつまり道具なのだと最近思いつつある。
道具はあくまで道具。ましてや山中にMTBで突入すると、走れないときにはただの重い荷物に成り下がる。
私は道具をこよなく愛する、という性分ではないらしく、私自身が何をするのか、何をしているのかが重要なのだと、ここを間違えてはならないと自戒しなくてはならない。
自転車は好きだが、人生の大きな部分を占めるまでの趣味にならなかったのは、そんな理由があったからだろう。

キャンプもそうだ。
今でこそ、家族の快適性を犠牲にしない様々なアイテムを車に積んでいくが、本当は各自がザックに背負えて行動できる程度の装備が好ましい。
余計なモノは極力省きたい。シンプルにすればする分だけ、モノにかかずらう時間を省略でき、その分自分が飛び込んだ自然を感じる時間ができる。

登山はいわずもがなだろう。100g単位の軽量化を本気で考える。
今は高尾山程度なので、家族が頂上まで必要な水分があればザックすらいらないくらいだ。
念のためにファーストエイドだけは持っていく程度である。

オレが本当にやりたいことは何だ?
オレが本当に必要としているものは何なのだ?

この本で、私はそれに気がついた。
いや、まだ完全には掘り下げ切ってはいないだろう。
しかし、何が今現在の生活で足りないのかは分かった気がする。
そしてそれは、今現在の幸せとは別にあるものなのだと思われる。
当然、今の幸せを犠牲にしてまで強行するようなものではないことも、だ。

だから私は、ほんのちょっと一人きりで山中に逃げ込むことを考えたい。
都心のコンクリートジャングルをしばし忘れ、孤独を感じる時間を作りたい。
その孤独は、人間社会から切り離された孤独であって、山小屋の隣のテン場などというものでは意味が無い。
少なくともシチュエーションだけはサバイバルな空間でなくてはならない。
たとえ一泊二日でも、だ。

人はズルなしで生きられるのか。
たとえばちょっとしたデカい岩があれば、それに登ってみる。
ロープやハーケンやカムなど、人口登攀の道具は使わない。
「おまえ、ズルなしでここ登れる?」

それと同じで、テントやドライフーズやガスorガソリンのコンロ、ランタン、等々の文明の利器は使わない。
「おまえ、ズルなしで山中で生きられる?」
これにはボーダーをどこに求めるかでサバイバルの有り方が左右されるだろう。
衣服や塩なども現地調達、シュラフも火も持たず、では、そもそも人間生活そのものが成り立つまい。登山どころではない。

落としどころうんぬんの話を始めると途端にこのテの議論は不毛かつシラケたものになってしまう。むしろ、そういった議論そのものが生の実感をつかみ取ろうとする態度そのものから乖離している。意味が無い。
サバイバル登山とは、人間の魂の感触そのものを取り戻す試みなのだから、その目的を達成するために、ある時は単独行のための人口登攀用具が必要になり、ある時は冬山に入り込むためのアイゼンやピッケルや他の様々な装備が必要になるのだ。

もちろん、可能ならばそれすら省いてしまいたい、というのが本音だが、本末を転倒してはならない。
著者は、電気で動作するものは一切持っていかないそうだ。
更にはストーブやテントも持っていかない。
一般的なキャンプやテント泊登山の経験者なら、それがいかに凄まじいモノか、常軌を逸しているか、良く理解できるはずだ。

私は通勤電車での行き帰りでは、必ず耳栓代わりに音楽を聴いている。しかも激しいロックがほとんどだ。
それは、人の話し声が仕事で弱った私の精神の静謐を妨害し、不安定にするからだ。
いわば私はちょっと神経質なのだろう。
しかしこの本を読み始めたとき、私は自分がいつもの耳栓が不要であることに気がついた。
それほど、この本は私を集中させた。

更に、私は今、続けて2回目を読み始めている。
どんなに面白い本でも、私は立て続けに2回繰り返して読んだ本は記憶に無い。
それほど、私にとっては羨望の思いを掻き立てる内容なのだ。

似た感じの本に、寺崎 勉著の「さすらいの野宿ライダーになる本」というのがあった。
野性味あふれるバイクツーリングの本だ。
しかし、この本はどちらかといえば、建築の資材置き場にテントを張ったり、河川敷の橋の下で寝たりと、ややホーム○ス風味な"野性味"を醸し出している。
それはそれで面白いのだが、本来私がやりたかったこととはちょっと方向が異なっていた。
ただ、「魂を"やや"揺さぶる」本だったので好きだった。

人の魂を揺さぶるモノ・コトには様々なやりかたがあるのだろう。
鉄道マニアやフィギュアのコレクション、ゴルフ、スキーなど、人それぞれ千差万別だろう。
私の場合は、たまたまこの本の著者がやっていることを、もっと小規模でかつてやっていたのだった。
そしてそれは、私の生の非常に大きな部分を占めていて、私が人間性を解放するエネルギーの源だったのだ。
それを私はこの本で思い出した。

これまで読んできた数多の本の中で、特大級の衝撃を受けた本だった。
これほどまで私を夢中で読ませた本は、そうそうは記憶に無い。
SFのアイザック・アシモフ著「私はロボット」以来の衝撃かもしれない。
あるいは遠い昔、小学生の頃に読んだ畑 正則ことムツゴロウ氏の「どんべえ物語」か。

加齢と共にじりじりと衰退していく自分の中身に焦燥感を覚えつつ、私は現在の私でも可能な「再生方法」を探っている。
おそらく私はその方法を見つけることができるだろう。
後は実践するだけだ。

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